森の里に行ってみた!
霊園とか厚木の斎場に行った帰りによく通る森の里。車窓からの眺めに懐かしさを感じながらも、お彼岸時期で急いで広済寺に戻らなければならなかったり、仮に時間が取れても、ドレスコードが黒衣のままに、当時の面影に思い出ポロポロしながら徘徊するのも、かなりの怪しさ過積載!ということで、そばは通っても、上陸しないでいました。
厚木キャンパス閉鎖後相模原に移転し、はや18年。きょう厚木に出る用事もあったので、行ってみました。
厚木の最晩年の頃を、詳しくあげているサイトはこちらです。管理人さんと同窓生のおふたりで、2019年秋には、私がつくったたぬきの学校にも来てくださいました。
▲写真左手に見える駐車場に車を置いて、橋を渡ってきました。当時、原付で通っていました。駐車場の申請が面倒なので、若宮公園に置いて、この陸橋から校舎に向かっていました。約30年ぶりですが、当時の道を歩いてみましょう。
▲赤く指でマーカーしたのが、きょうのルートです。外周は2キロくらいです。校舎はとうの昔になくなってしまいましたが、遺構や遺跡を訪ねる感じで歩いてみましょう!
▲正面に見えるのは校地跡に建った日産先進技術開発センターのビル群。右手は高級レストランのアマンダンヒルズ。私の在学中は何もなくて、まだまだ草が生い茂る空き地でした。
▲30年前ならばアイビーが絡むコンクリートでうちっぱなしの低層の校舎が見えました。いろんな思い出を重ねながら、階段を登っていきます。道そのものは昔のままでした。後ろをちょっとふりかえってみます。
広済寺の墓地や秦野斎場から見える丹沢山系が、往時の校舎から見えたのとカブると、何度かこのブログでもお伝えしてきました。
階段からなので、広角になりませんが、語学のLL棟や学食棟から見えたのはこんな感じだったのでしょうか?
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厚木キャンパスはいまはもうありませんが、広済寺には私が禅の見立てでつくったジオラマオブジェ、たぬきの学校があります。
▲大山・丹沢を借景にしています。
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▲階段を登りきったところまでやって来ました。ここも昔と変わっていませんでした。左手が南門です。南門からはB館とチャペルを挟んで噴水池と時計があるK館がありました。私のジオラマ、たぬきの学校で再現してみましょう。
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南門からのパースペクティブを⋯
▲ジオラマで再現すると、こうなります。
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いまは日産先進技術開発センター。守衛のおじさんが怖いので、正面からの眺望は避けました。おひとりでも、あ・うんの仁王さん以上のお働きなんです。行けばわかります。
▲南門だった周辺はこんな感じです。学校だった頃は、講義がある校舎の位置によってはこちらから入る先生の車や、学食や購買への搬入の車はこの南門からでした。
▲ウェスレーチャペルがあったあたりです。いまは最高機密の研究所。忍者がえしの如くバラ線が張り巡らされています。
正門のほうへ来ました。
体育の授業で使ったグラウンド。筋トレルームは、私たちが卒業してから、一般の学生に使用がオープンになり、ちょっと悔しい思いをしたものです。ふるさと創生で、市町村レベルで公共の体育施設ができ、大手が安価なクラブを増設。既存のボディビル・ジムが淘汰され出したのが90年代初めからでした。
▲塀やキャンパス内がレンガ🧱でデザインを統一したのは渋谷と厚木と距離はあってもつながっているという意識のあらわれだと、往時の学内の記事で読みました。歩道のレンガはありし日の厚木キャンパス構内に敷かれていたものと同じもの。懐かしく思えました。5月のGWには厚木祭なるものがあって渋谷から厚木まで夜間246号線を歩くというとんでもないイベントもありました。▼
正門のアングルはそのまま。しばらくは残されていたレンガの塀は別のものに代わっていました。厚木キャンパスで学んで、日産に入社して、ここで働いている人もあると思います。もし居てたらどんな気持ちでいるんだろう。
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たぬきの学校で、レンガの塀に見立てたタイル。
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かつての正門にあった看板、チャペルのパイプオルガンとステンドグラスとカリオン、噴水池の使徒ヨハネ像、校舎内の樹木は移転先の相模原キャンパスに運ばれました。厚木キャンパス内の跡地の外周道路は活かしつつ、建物がある印象です。グラウンドとセミナーハウスはほぼ居抜きで使っている様子です。
▲グラウンドと校舎をつなぐ陸橋。青山橋って呼んでいたのではないでしょうか?
▲しごとでこの辺に来ると、このアングルで目にする校舎を、運転しながら何度見ては、当時を思い出したことか⋯。きょう、やっと上陸してこの目で確かめることができました。
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ジオラマ〜たぬきの学校でいうと、
▲写真の右手。奥からH館、I館あたりになりますね。
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▲青学の面影は地名と、グラウンドとセミナーハウスに残すのみです。日産になったら森の里日産になるのかなと思っていました。厚木キャンパスがあったのは1982〜2003年までの丸22年間。私が在学したのは1987年4月〜1991年3月でした。ピーク時にいた学生数6,000人が一挙にいなくなったわけですから、ゴーストタウン化するはずです。
▲やる気のないトロリーのバス停。字が「森の 青山」
大阪なんかでパチンコ屋さんのネオンの一文字目が切れて点滅していても、オモロいからと言って、ほっとく感じですね。
▲元々の青山学院大学ゆきだった路線の終点を森の里まで延長したり、愛甲石田行きと本厚木行きへとの系統整理を行なっています。それにしても平日に12時14分で終バスって、ものすごい迷な印象を受けますね。学校だった時代はバスの輸送力が間に合わず、神奈中の厚木だけでなく、伊勢原営業所管轄のバスも応援に出ていました。
▲真ん中に見える小さな建物は守衛のおじさんの詰所で、学校だった時からあったもののようです。コンクリートのうちっぱなしに、多分、生えているのはアイビーでしょう。
▲セミナーハウスは私たちが卒業して95年頃できたもの。Wikipedia によると、厚木キャンパスの閉鎖が決まっても、セミナーハウスは残す意向もあったそうです。じつは私たちが在学中に、「厚木市は駅までのモノレールの建設をしなかった」「不便だから移転」の話は噂で聞いていました。たまたま七沢で中居さんのアルバイトをしていた女子学生が、お客で来ていた学校幹部に給仕をし、彼らのそういう話を聞いたというのです。もう実際には移転したので、こんなこともオープンにしてもいいでしょう。
▲学生課が管理していた駐車場。当時、車がないじぶん的には、ほんとうに惨めでした。いまは、時代が下がって、車すらはじめから持たない世代もあります。江戸からキャンパスが遠いというのは、通学や下宿など経済的にも足かせになるから、無理がたたり、移転の遠因になったことは周知のとおりです。
▲興味のない講義は嫌だったけれど、いるだけで楽しかった購買会のあったM館はこの辺かなぁ?
▲厚木キャンパス移転の教訓。それは「無理なものは、ぜったいに長続きしない」ことだと私は思います。これは肝に銘じて、私が行動するときのひとつの基準にしているんです。どんなに立派なものでも、縁がなくなれば、機能しなくなる。これは、くう「空」の概念ですね。学校も万博会場みたいなモンなのか⋯?と思うと虚しくなることがあります。
学び舎の本質とか大元は本校の渋谷にあるし、移転先の相模原にあるとしても、学び舎が無くなってしまうのは、やはり心のどこかにキズが残る。その埋め合わせが、ジオラマ〜たぬきの学校だったのかもしれません。ただ、相模原キャンパスに何度か訪問して思ったのは、厚木キャンパスの雰囲気がそこかしこにあるということ。これは大きな救いでした。
きょうは、ちょっと思い出話でしたが⋯
またまた、UFO が写り込んでしまいました。
▲ほんとうはこの写真からお話をスタートさせようと思ったのです。
ほぼ真ん中の黒い車の上に12時の方向にいます。
拡大してみると⋯
▲🛸一挙に白いのが3機。黒が一機。
きょうもついている!⋯ということで、おひらきに致しましょう。
いい思い出も 悪い思い出も たくさんあるから いまがある。〜どうげん