新お坊さんの智恵袋

どうげんが毎日発信〜きょうの広済寺・住職の予定情報をいちはやく!

8月盆ブログ棚経③

お檀家さんへ〜昨晩の雷で起きた停電のため、回線に障害が出ております。現在、文書の発行等ができません。業者さんがお盆休みで作業ができないので、復旧は来週いっぱいとなります。ご了承ください。

おはようございます☀

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本来ならば、きょう8/14は下平間門前と小鍋島を回る日でした。きょうもお仏壇やお飾りには、おふだをお供えしてください。

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準備ができたら、お話しをはじめましょう。

 

ネットでニュースを見ていたら、おてらさんによっては、苗字のあいうえお順で、墓参の時間枠を設け、極力密にならないようにしているところもあるようです。広済寺では皆さまにご理解をいただき、お盆の受け入れや墓参は順調です。ご協力に感謝を申し上げます。

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祈るって どういうこと?

おてらは朝課、つまり朝のお経から始まります。

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湯呑みを洗い、お茶をお供えし、「一日無事に行きますように」と祈ります。当たり前過ぎて、祈るとか言われても、あまりそういう意識はなく、毎日のことだから自然にやっているということです。

最近では少なくなりましたが、広済寺に来てまもない頃、門前のおばさんたちから、お赤飯をいただくことがありました。

「お盆だから」

「きょうはお父さんのたち日だから」

命日のことですね。

「オツイタチだから」「ジュウゴンチだから」

1と15の日。これは臨済宗の本山さんでは祝聖(しゅくしん)と言って、新たな区切りの日を迎えたことに感謝し、日本を始め世界の平和と安泰、安全を願う日です。早朝から儀式をします。旧家さんでも心掛けていることに驚いたものです。

 

加えておてらや地域の年中行事や物故された方々の命日があり、私たちには、手を合わせて祈る機会がたくさんあります。とても大事なことです。祈りがないケースも見てきているからです。

経済的にしんどかった、不遇が重なり過ぎたなど、様々なことで、遺骨は部屋に置いたまま、お墓の区画はあっても石塔は建てない、仏壇は作らない……。いろんな方々を見てきました。じゃあ彼らがどうなったか?お金を使わずに済んだその分で、果たして助かったのでしょうか?助かっていませんでした。

祈りのない生活は孤立になりやすい

金銭のみならず、生活や行動のだいたいにおいて、目先のことで手一杯なります。わがままが強くなり、だんだんと、人は黙って去っていきます。墓参もろくにしたこともないのに「神も仏も無い」と言い、反省もしないご自身に原因があるのに「教育が悪い、社会が悪い、国が悪い」と叫び、さらに、祈ることや手を合わせることを忘れます。

あれだけおしゃれだったのに着るものにも無頓着になります。風呂場は洗車用ブラシとかペンキとかいっぱいの物置きにしてしまい、はやりのスーパー銭湯へ。高齢化し、免許も返納してしまえば、足がないから風呂にも入らずじまい。自炊を一切せずに店屋モノとコンビニ食だけで食生活も乱れます。もっとひどくなると、おボケも入り、小水で汚れた紙おむつを「まだ使える」とし、ベッドの柵に干し、悪臭漂う部屋もありました。ところが夫婦でこの状態に慣れてしまうと、もう取り返しがつきません。介護に携わる方々は、「そうなる前にSOSを出せ!」と言います。おうちの中も外も、文字通りの汚部屋と化し、瓦解が進みます。

正規の因果関係は見出せないのですが、公安関係の方々からは、「しっかりと家族のお見送りをしなかった人ほど、振りこめサギに騙されてしまうケースが多い」とも聞きます。独りよがりになり、情報が少ないからなのでしょうね。

年にいっぺんでもお盆には、親戚や友達が寄って来たり、菩提寺さんがお経に来たり、お施餓鬼に参加したり、出会うことで、「仏心」と「物心」が共に行き交い、情報も共有できる。それができないわけです。どんなに仲違いしている兄弟姉妹であっても、坊さんがお盆にお経にやってくるとなれば、昨晩の雷鳴の如く、緊張が走ります。チョット大げさでしょうか?(笑笑)

うまい表現が見つからないのですが、「お坊さんが棚経に来るから」という緊張感、期待感、安堵感など、人によって受け止める何かがあることが大事だと思います。

今回、covid19のために棚経はできないまでも、個々の先祖代々のお名前を筆耕したおふだを送り、見てくださる方だけでもブログ棚経にしてみました。中止は仕方ないにせよ、代替策も取ったのは、以上のお話したような経験からです。

供養とは供(とも)に心を養うこと。亡き人を思い、墓参をしたり、仏壇に見舞うことが、糧になっていると思います。感染防止のため、できない部分もありますが、できることをやってあげる気持ちからはじめましょう。

 

じぶんのことは 一番最後。 チカラはあとからついてくる。〜どうげん