「笑いの芸術 狂言の世界」聴講ノート
28日に和泉元彌氏の講演を聴講させていただく機会に恵まれました。今後の勉強のために、雑記録をとりました。どなたもなさらないようでしたので、講演中の撮影は控えさせて頂きました。
和泉元彌氏の講演内容から。抜粋
狂言とは純粋な喜劇で、奈良時代に中国から伝わった散楽(さんがく)が始まり。のちに猿楽(さるがく)、または申楽(さるがく)となり、能や狂言になっていく。狂言で現在に至っているものは、大蔵流と和泉流である。
和泉流は579年前、みやこで生まれた。室町時代に確立した。約600年間、変わらなかったというのは変える必要がないほど、人心にあっていたからではないだろうか。狂言は言葉と動きで表現される。「サムライことば」という当時の標準語が使われている。現在の私たちでも6〜7割は理解できる。ものの名前や年中行事など、いまの習慣や生活と違うものはわかりにくいと思うが、だいたいはわかるだろう。
面は被らない。お面を被るのは、神、鬼、動物、精霊が登場するときである。あとは全て顔だけで演じる。人にものを伝える芸術である。
▼舞台の役割▼
昔はマイクもなければ、大型スクリーンもない。今では観客に向かって行なうが、元々は神が宿り、降臨するとされる老松に向かって上演したため、正面は老松となっている。奥に老松、舞台、そしてそれらの下にある芝に座って、能や狂言を見たことから「芝に居る」→芝居ということばが生まれた。
演者が、舞台を一周すると、場面はセリフに出てきた場所になる。「みやこに参ろうぞ」と言いながら、周回が止まれば、舞台は京都ということだ。擬音と言って、動物の鳴き声や酒を注ぐシーンを再現する。犬ならばビョウビョウビョウとなり、唸り声である。室町時代がきほんなので、差があるが、見立てと想像を働かせて鑑賞するものなのである。
音やことばは、全て口伝である。海外でも、日本の古語で上演する。それでもわかってもらえるのは、表情が豊かだからである。
以上 抜粋でした。
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狂言小舞3つと狂言の棒縛(ぼうしばり)を鑑賞させていただきました。説明を聞いてからだったので、わかりやすく、楽しく、拝見することができました。全く未知の世界だったのですが、面白かったです。和泉元彌氏のお話と宗家の皆様の舞台がとても心に残るものでございましたので、雑駁ですが、日記にまとめてみました。皆さんと共有できれば幸いに存じます。不勉強ゆえ、表現上、若干の誤謬等はご了承ください。
未知のものが わかると 楽しい〜どうげん
〜おまけに〜
▼舞台の役割▼;写真の注は、きのう、りんごやさんの表参道で買った、りんごエンピツを初めて使ってみました。いつもは心斎橋なのですが、表参道もなかなか。充電も自由にさせていただくことができました。「なんとかiPad Proだけで、広済寺の文書システムをできないものか」と模索しつつ、2時間ほど新製品で遊んでおりました。エクセルからの脱出を目指しています。